緋の幻影
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青年期の壱 - 八

遊び方がだんだんせこくなってきた頃(女におごってもらっていた)
現金を詰め込んだバックが、すっからかんになった。
財布の中に7万円と小銭少々、その時はじめて、事の重大さを知った。
自宅に帰れないのである。
親父と顔を合わせる事は、へたすりゃ命にかかわる。
鬼の様な顔が目に浮かぶ。といってどこへ行くのか?
ええい、お寺にでももぐり込むか、実に短絡な思考で永平寺に向かった。
宿代を節約するつもりで見学を申し込み、本堂、庫裡などをお坊さんの後について
説明を聞きながら、隙を見て話しかけた。
「ここで修行したいのですが」
お坊さんは私の顔をじっと見つめて
「あなたには無理です」
「何故ですか?どんなに厳しくてもがんばりますから、お願いします」
私も行くところがないので必死だった。
「仏門に入るという覚悟、気構えが全然見えてこない。帰りなさい」
能面のように表情の無い顔からムチのような言葉が飛び出してきた。
それでもぐずぐずと、へりくつ重ねて、ねばっていると、
若いお坊さんが3・4人集まってきて、私の腕をつかみ山門から叩きだされた。
「ばかやろ~!二度とくるもんか」
駅のベンチに座りながら、頭の中は白くもやっていた。
とりあえず京都に戻ろう、もう一度考え直すんだ。
京都油小路のビジネスホテルで結論の出ない考えがエンドレスで、ぐるぐるまわっている間に夜が明けた。
「仙台に帰ろう、なんとかなるさ!?」
自分自身を励ます様に大きな声で口に出し、気合いを入れた。
「ただいま」玄関で声をかけたら、親父がでてきた。
「どちらさんです?」
「どちらさん?俺だけど?!」
「知らんな~」
私は土産の八橋を投げつけて家を出た。
以来、35年近く家には近よっていない。
家があるかどうかもわからない(すでに売却されていた)音信不通というやつだ。
はてさて、親父殿元気でいるのか、それとも、おくたばりあそばしたか。
オリンピックではないが、4年に1度位思い出す。


これで、青年期の壱は終ります。
次回からは女がらみの、地獄の修羅場と金が引き起こす
自業自得の悲喜劇です、お楽しみに!!
 

青年期の壱 - 七

酒と女にあけくれた毎日であったが、昼間は結構お寺参りをしていた。
初日の観光ハイヤーの運転士さんがすごくいい人で5日間連続で都ホテルに
迎えにきてもらい半日観光でいろんなところを案内してもらった。
同じホテルに一週間も滞在しているとさすがに気まずくなり、南禅寺そばの和風旅館に引っ越した。
この旅館は一泊でさよならした。
原因は夜中に女を呼び、お取り込みの後、
女が出てゆくときにおかみに見つかり、いやな顔をされたからである。
二条城近くのホテルに居点を移した。
そこも3日間でチェックアウトし、御池通りのホテルに移り、華々しい夜の生活を楽しんでいたが徐々に疲れてきた。
頭のしんからしびれるような孤独感が身体全体に広がり、観光も苦痛になり、
ホテルで天井を見つめながらボーっとしている状態になった。
木屋町に京都おばんざいの店「蔦」という、65歳位のおばあさんが1人で切り盛りしている小じんまりとした店で、過すようになった。2坪ほどでカウンターにとまり木5つの本当に小さな店だが食物は、ばつぐんに旨かった。
このおばあさん「木屋町のおかはん」とは京都を去るまでの間4,5回デートをした。
とくに北野天満宮から上七軒にかけての散歩は消し炭のようにほのかな温かさで想い出に残っている。

京都どんづまり、ノーリターン旅行の終焉が近づいていた。




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青年期の壱 - 六

京都三条蹴上の都ホテルに到着。
レンタカーをパーキングに止め、フロントでチェックイン。ボーイさんに案内され、シングルルームへ、といっても結構広い、

ロビーには外人が多かったし、かなりご立派なホテルだ。
だが私には金がある。
5泊、10泊、目じゃないとばかり鼻息を荒くし、まずは腹ごしらえ。
ルームサービスで食事を注文し、シャワーをあびた。
夜が来た!さぁ~四条河原町へGO。
ハイヤーを祇園ホテルの前でおり、まずは川端あたりをうろちょろしたが、なかなか気に入った名前が見当たらない。
いちいち店に入って中の様子を見るわけにもいかず、さんざん歩き回ったあげく結局元の場所にもどり、最初に見に入ったクラ

ブ?の扉を開いた。
「おこしやす」やわらかい京都弁に一瞬戸惑いながらも
「旅の者ですけど、これで飲ませてください」とキザな台詞をはき、さりげなくカウンターの上に5万円をのせた。
「え!?」 
「明日も来ますのでよろしく」
女の子3、4人でドンチャンさわぎ、あっという間11時の閉店。
「何か食べに行きませんか?良いところがあったら案内して下さい」
4、5人ずれでぽんと町の料理店へ行ったが10万円位吹っ飛んだ記憶がある。
翌日観光ハイヤーをたのみ光悦寺など観光客があまり行かないところを何カ所かまわり、
夜はまた川端の例のクラブへ。
その日、深い仲となる女性と知り合う事になる。あっという間の金が飛んでいく原因となるのだが、
京都言葉にふわっとなり雲の上を歩くような気分で一週間、10日はあっという間に過ぎた。
時の流れとともにバックの中身が加速度を増して軽くなっていた。
だが金はまだ有る!!
かなりある!!
よ~し、明日はひさ子(川端のクラブのホステス)と石山寺に行こう。




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青年期の壱 - 五

ろくなことをしてこなかった私だが、一つだけまともな部分があった。
それはお寺や仏像を見るのが好きで一日中お寺でぼうっとしていた日が結構あった。
心の中のなにかをうめようとしたのか欠けているものを無意識に求めていたのか、さだかではない。
といったところで例の金の話。
1,200万の金も目の前に置いて考えた。
どうせ家を出て行くんだ、この金もまともな金じゃないんだろう、よーしもらっておこう!
全額にするか、気持ち置いてゆくか?
結論、1,000万をバックに詰め込み、200万は元に戻した。
きりのいいところという身勝手な論理である。
そうと決まればさっそく行動、一番町でフォルクスワーゲンサンタナをレンタルし、一路目的地京都まで直行。
東北自動車道は部分部分で開通していたと記憶しているが岩槻でおり、一般道を走り、首都高速をわけも解らず通り抜け、東名を走っているうちにへたばり、浜名湖でおりて旅館に泊まった。
豪勢な鰻ずくしを女中さんにオーダーし、京都の都ホテルに1週間の連泊を予約した。
二度と親父の顔を見なくてすむという安心感と、これだけ金があればなんでもできるという興奮感が車の速度を段々とあげていった。


青年期の壱 - 四

事の発端は車の免許証であった。10月の始めに七北田の試験場で学科とコース内検定
(当時は路上検定は無かった)を受験し、2回落ちた後3回目で合格した。
免許証を手に入れると、さあ~車の運転がしたくなる、が、我家に車は無い。
ホンダのサービス工場に友人がいたので当時最先端のS600を構内限定ということで試乗させて
もらったが、ものの見事にコンクリート塀に激突し大破、私は軽傷ですんだが、車の弁償を
するはめになった。しかし、金が無い、ぐずぐずしているうちにホンダから親父に電話が入った。

「おまえ、とんでもない事をしたな!」

身体の安否よりも弁償金のことを先に言う親父に、自分が悪いとは承知の上でもさすがに
カチンときた。

「なにいってるんだ!自分こそでたらめな事ばかりやってきて」
「ふざけるんじゃねえ、俺のする事に文句があるのか、え~!」
「・・・・」
「いやなら出て行け!」
「わかった、出て行くよ、出て行きゃいいんだろう!」

売り言葉に買い言葉、ついに家を出る事になったのだが、先立つものは金、金、金。
親父が留守の間に荷物をまとめながら金目の物を探し回った。
ある日、普段は自分の部屋のタンスなどに鍵などかけない親父があたりに気を
配りながら施錠しているのを盗み見た。
次の日から親父がいなくなった、相変わらず行き先を告げず所在不明。
チャンスだとばかり、気になっていたタンスを開けようとしたが鍵が無い。
忘れ物が多い親父が鍵を持っていくはずが無い、きっと家の中に有る。
いつ帰ってくるかとハラハラしながら探したが無い、真夜中まで探したが無い 。
次の日、探す視点を変えてみた、もし、俺が親父なら何処に置くだろう?
ありました、見つけました。机の引き出しの奥に宝石箱のような小さな箱に何種類かの
鍵が入っていたが、タンスの鍵は特徴がありすぐわかった。
さっそくタンスの中をていねいに扱いながら、上から順々に探していくと下から2番目の
奥に風呂敷に包まれたズシリとした手応え、ドキドキしながら広げてみた。
なんと!! 札束、しかも帯封がされた12個のピン札、1,200万円の現金だ!
銀行強盗でもしたのか? それとも偽札か? それはないか!?
札束を見つめながら、私は呆然としていた。


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青年期の壱 - 三

春の到来とともにリハビリの成果が出始め、整形の秋葉先生と病院の中庭でバドミントンをした
(勿論、動きはぎこちないが)

歩けるようになったのである!!

苦しさ、辛さは嘘のように消えていた。
秋葉先生は奇跡に近いと言っていたが、若さというエネルギーははかりしれないものがあった
のかもしれない。
退院が目前に迫った頃、親父が絶頂期からたたき落ちた、商法が改正され、あやしげな新聞を
むりやり企業に購読させ、なにがしかの金を毎月若い衆に集金させていたのができなくなった
のである。我家から徐々に金の匂いが消えていった。
杜の都の桜が満開を迎えた頃、退院した。

「おい、この家、今年いっぱいでなくなるからな」
「え?」
「保証人になった奴が逃げてよ、担保に入っていたんだ」
「引っ越すの?」
「ああ、まだ先だけどな、俺も落ちたもんだ」

急に老け込んだような親父のだみ声にあらためて現実を感じとった。
私はリハビリ中だったので家の中でゴロゴロしたり、裏庭で身体を動かしたりしていたが、妙な
不安が頭から離れなかった。
生まれて初めて働いてみようと思ったが、手術の傷跡が痛んだために実際に就職(アルバイト)
したのは7月のはじめ頃で、建設会社といっても重機専門の中小企業だった。
そこで2人の女性と知り合う事になる。ひとりは事務を担当している一つ年上のスレンダーな
美人で10年位くされ縁が続き、もうひとりは一つ年下の平凡な田舎娘だったが、たまたまこの
会社に面接に来て(某電気メーカーのクレジット部に就職してしまったが)上司が留守
だったので15分ほど話していたが、妙に引かれるところがあり連絡先(友人の女の子と二人で
同居しているアパート)を教えてもらった。
その田舎娘(C子)と1年後結婚する事になるとは夢にも思わなかった。

其の前に親父の金をくすねorセンチメンタルorゴージャスor酒と女のセットor最後はどん底の
30日間京都周遊旅行の旅で二十歳の幕開けと行きましょう!



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青年期の壱 - 二

入院生活も早や5ヶ月、日に日に体調が悪くなる状況で19歳の正月を迎えた。
松の内もあけた頃、脳神経内科から脳神経外科に変わった、6人部屋で病棟の一番端っこ、
脳神経外科の名前の通り患者は脳梗塞、脳腫瘍、脳出血などほとんど助からない人達ばかり、
昨日入院した人が夜中にはベッドが空になり、2日前に手術した隣の人は3日目に死亡、私の
斜め前の人は一言も口を開かず、つるつるに剃った頭に白いネットをかぶり眼を閉じたまま
であったが、その人のベッドもいつの間にか空になっていた。
いったい何人の人が私の目の前で亡くなっていったのだろう。

人間の生とはこんなに簡単に断ち切られてしまうものか、人生経験の少ない私は頭から毛布を
かぶり見えないふりをするだけだった。
悲しみも辛さも無い、ただ、頭の中にうっすらとしたもやが広がり何も考えられなかった。

秋葉先生という整形外科の先生も担当となり、又、地獄の検査が始まった。
アンギョグラフィーという検査で穿刺針を脊髄に挿入、白色の液体が脊髄を通過し、ある一点で
止まった、感覚の境目、へその真裏であった。

病名 「脊髄腫瘍」

直ちに手術、脳神経外科、整形外科、胸部外科の合同手術という大掛かりなものであった。
後で知った事であるが成功率10%(其の当時の医学水準では)というきわどい勝負であった。
そんな事情とは露知らずこれで退院できると単純に考えていたが、地獄のリハビリが待っていた。
これほどの辛い経験は初めてであった。リハビリの先生の顔が鬼のように見えた。

「先生、もういい、寝たきりでもいいから!」
「なにいってる、ここを乗り切れば歩けるようになるんだぞ!」

わずか20メートル位の距離を腕と指の力だけで壁際の凹凸に爪を掛けながら下半身を引き摺って
泣きながら歩いた、来る日も、来る日も。
中学校の時の同級生が何回か訪ねてきてくれたのが嬉しかった。
親父の顔を見たのはたった一度だけであった。

青年期の壱

むりやり高校を卒業(親父のゴリオシで)したものの特に目的も無く、とりあえず大学にでも
行くかと、女の子の多そうなところを物色し某私立大学に入学した。
其の時から人生の歯車がどんどん狂いだしたのである(すでに狂っていたのだが、本人は
気づいていなかった)

いきなり大学をくび(除籍)にされた、親父をたぶらかして授業料1年分の現金を手に入れ
ネオン街に寄付したのだ。督促状は何回か来たがその都度見つからないようにゴミ箱に捨てた。
その後大学に通うふりして遊びほうけていたが、ある日、下半身に力が入らず、わずかな段差で
つまずきころんでしまった、不規則な生活で体調が悪いためだと思い気にもしなかったが
次の日から真っ直ぐに歩けなくなりしょっちゅう転ぶようになった。
さすがにこれはおかしいと思い近所の医院で診察を受けたら、東北大学付属病院長町分院
脳神経内科(今は無い)を紹介され、首をかしげながらもとりあえず行ってみたらいきなり
入院!!
親父に連絡しようにも所在不明、金だけは持っていたので身の回り品を売店で購入しベッドに
横たわった。
夕方、お偉い先生を囲み4,5人のお医者さんがわけのわからない医学用語で会話をしていたが、
10分位でさっといなくなり、気持ち悪い静寂の中で4人部屋の3人の患者の視線が私を見つめ
ていた。生きているのか、死んでいるのかわからないようなドロンとした表情が不気味であった。
とりあえず よろしく! と挨拶したが、あ~、う~とかの音が聞こえただけで薬品の匂いと
ともに死神がうろうろしているように感じ、背筋が冷たくなった。

入院してから3,4日くらいは歩けたが、いつのまにか車椅子の生活に変わった。
その間、検査、検査の連続であったが1ヶ月過ぎても担当医から病名も教えてもらえず、そのうちに
寝たきりになり、トイレもベッドの上で用をたし、わずか1坪たらずの空間が生活のすべてとなって
しまった。

病名 「スモン病」

2ヵ月後やっと病名を教えていただいたが、希望は持てなかった。
治療不能の難病という担当医の説明にただうなずくしかなかった。

誤診という文字が新たな展開を引き起こし、12時間という大手術が行なわれるのはその後3ヶ月を
待たなければならなかった。


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少年期の最終章

人前にはとてもさらけ出せないような人相のお兄さん達がウロウロしている部屋でいきなりビンタを
張られた、唇が切れ血が飛び散った。
 「未成年だからな後がうるせえ、めだたねえように可愛がってやれ」
頭を殴られ、足をけられ、ついでに頭突きを食らった。
 「いててて、いてーよ!」
「あらいざらいしゃべらねえともっと痛い目にあうぜ」
ついに陥落、本名、住所、親父の名前を白状した。
「うん?! セイ次郎さんの息子か?」
 「はい」
 「おい、お前らやめろ、手を出すな」
 「セイ次郎さんの息子かー、こりゃややこしい事になったな」
 「どういうことですか?」
 「お前の親父さんには昔世話になった事があってな、借りがあるんだよ」
 「・・・・」
「エミの事は無かったことにする、その代わり今日の事は忘れろ、親父さんにはどこかで
  ケンカしたとでも言っとけ、いいな!」
というわけで、いきなり世の中の苦さを知った。
親父にばれずにすみそうだ、暫くはおとなしくしていようと思ったが一週間もたたない内に
またもや女とのトラブル、悪い事は続く。
以前付き合った女(金を借りて踏み倒した)が電話で親父に告げ口をしたのだ。
そうとも知らず、学校から帰ってきた私にいきなり親父の鉄拳制裁、さらには箸で手首を
刺された、その古傷はいまだに残っている。


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少年期の弐 - 六

振って沸いたような災難がやってきた、トラブルだ!アクシデントだ!とさわいでも
後の祭り、これはかなりヤバイ。
事の発端は行きつけのグランドバーの女の子とラブホテル(当時は連れ込み旅館といった)
に泊まり、すったもんだのすえに晴れて童貞をささげまつった其の時から、当然のごとく
降りかかってくる運命だった。
エミちゃん(20歳位?)とのお付き合いは数度に及び、昼間も食事だ喫茶店だと遊び
回っていたが、ある日、エミちゃんが男性と一緒に現れた。バリッとした服装、高そうな
時計やネクタイ、其の割には全体の色調がしぶく、どことなく威圧感を覚えた。
「エミと付き合ってるんだってなー」
さりげなくテーブルの上におかれた左手に眼をやるときんきらきんと光輝く指輪のとなりの
指が妙にバランスが悪い、第1関節から先が無かった。
「え?」
 「え、じゃねえんだよ、俺もなめられたもんだ、こんなガキにスケを寝取られるとはなー」
 「ねえ、許してやって、私からさそったんだからさー」
 「うるせえ! お前はだまってろ、俺も**組の幹部だメンツが 立たねえんだよ、えー」
テーブルの下で膝がカタカタと踊った。
 「名前は?」
本能的に本名は言ってはいけないと思った、右翼の親父と極道だ、おおごとになりそうな
気がしたのである。
 「ヨシユキです」
 「苗字は?」
とっさに佐藤という苗字が浮かんだ。
 「佐藤です!」
「オイ、こいつの名前本当か」
 「苗字は知らないわ、いつもヨッちゃんと呼んでいたから」
 「どこに住んでるんだ?」
「鉄砲町」
おもわず本当のことを言ってしまった。
 「おまえ、未成年だからな、親父と話をつける案内しろ!」
 「いいえ、これは僕の問題です、父は関係ありません」
 「なまいきなことを言うんじゃねえ、ケツの青いガキがどうおとしまえをつけるって言うんだ、えー」
 「どうすればいいんですか?」
 「事務所に来い!!」
 「パパ、やめてお願いだから」
 「やかましい、お前は引っ込んでいろ」
というあんばいで**組の事務所につれていかれた。
私は震えながらも覚悟を決めた、なるようになれ!!


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